現在、6/30の【夏越祭】と7/28の【夏祭り】に掲灯する「絵馬燈籠(えまとうろう)」の絵を募集しております。
横幅が約40cm、縦が約30~35cmくらいの大きさの紙に自由に絵をお描き頂き、当宮の社務所へお持ち下さいませ。
(用紙は高知八幡宮 社務所でもお渡しできます)
※ お持ち頂いた方には、お1人につき3枚の福引券を贈呈いたします。
お祭りの当日、日暮れ頃より境内に掲灯させて頂きます。
ちなみに、宮司や当宮職員が描いた「神話シリーズ」や「歴代天皇シリーズ」も宜しければご鑑賞下さいませ。
あっという間に、今年も上半期が過ぎようとしております。
(ちなみに、神社界では1月から6月までが上半期、それ以降を下半期と見ます)
あと10日ほどで【夏越ノ大祓(なごしのおおはらえ)】夏越祭(なごしさい)でございます。
茅(ちがや)で作った茅の輪(ちのわ)を潜り抜ける事から「わぬけ様」と親しまれております。
上半期で身に付いた「穢れ」や「災い」を形代(かたしろ)へと移して、大祓詞(おおはらえのことば)を神職が奏上し祓い清め、大川路(おおかわぢ)より大海原へと流し去り、国家の平安と共に地域や家族の安泰を願います。
さらに、葉先が刃物の様に鋭く青々と茂った「茅」の葉は「魔除け」と「生命力」の象徴とされており、この「茅」で作った輪を左・右・左の順で「水無月の 夏越の祓 する人は 千歳の命 延ぶと言う也」(地域によって様々)という歌を唱えながら潜り抜ける事で、これから厳しさを増す夏の暑さによる病気などに障ることなく無事に下半期を過ごせるようお祈りする神事でございます。
近年は、コロナの影響で当宮でも【分散参拝】を推奨しております。
例年よりも早い時期から、そして1週間ほど遅くまでこの「茅の輪」を境内へ安置して、お詣りに来られる方が出来るだけ密を避け、お好きな時に参拝して頂けるようになっております。
今年も6/26(日)の午後より、7/7(木)七夕の日まで「茅の輪」をお潜り頂けるよう準備を進めております。
夜店が出たり、神賑行事(こどもスイカ割り大会など)で賑わうのは6/30(木)夏越祭の当日のみとはなりますが、ゆっくりとお詣りされたい方には平日の昼間がお勧めでございます。
身心共に清浄な状態へとたちかえり、あと半年を清々しくお送り頂けますよう、ぜひお詣り下さいませ。
「実はパワースポット化していません?」
・・・という事で、境内社の【磐長姫神社】のご紹介です。
ご本殿の東側、3社相殿となるお宮の向かって左殿に御鎮座。
日本の国土、山々の守護神である「大山衹神」の御息女であり、
縁結び・寿命長久の守り神でございます。
御神名のとおり「岩のように堅固で永久不変のもの」
という事から「寿命長久」の御神徳。そしてまた、
神話では、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)の元に妹神の木花之佐久夜姫神(このはなのさくやびめのかみ)と共に嫁ぐが、
容姿が醜かった事から、父の元に送り返されてしまいます。
父である大山衹神はそれを怒り、
「磐長姫を差し上げたのは、天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜姫を差し上げたのは、天孫が花のように繁栄するよう契約を立てたからである」と教え、
磐長姫を返したことで天孫の寿命は、木の花が儚く散る様に短くなるだろう。と告げられました。
この様な神話からも、磐長姫神の御神徳は「縁結び」でありながら、一方では「悪縁切り」という「良縁」は結び、「悪縁」は断ち切る。
という側面も持ち合わせているようでございます。
そのような事からなのでしょうか。
近年、と言っても10年ほど前からじわりじわりとではありますが、
この【磐長姫神社】について遠方からわざわざ訪ねて来られたり、
時には御師(おし)の様な方が団体を引き連れて参拝に来られ、
神社のいわれや、御祭神の解説などを社殿前で講話さる姿を時より見かけるようになりました。
どうも、知る人ぞ知るパワースポットと化している様子でございます。
やはり、世知辛い世の中。
現代の複雑な人間関係では、良縁を結んで下さるだけでは飽き足らず、
生活を営む上で、どうしても避けては通れない自分にとっては不都合となるような縁。
つまり悪縁の方を断ち切ってもらう事も、良縁を結んで頂く事以上に切実なことなのかもしれません。
かく言う神社で奉職する身であっても、本当に極希にではありますが、たまぁ~に、崇敬の念が全く感じられない方の “ 矢面に立たなければならない時 ” などには、
「ちょっと、このご縁はご遠慮ねがいたいのになぁ。」なんて、下手な駄洒落のような・・・
こんな時にはどうしても「あぁ、申し訳ないが、このご縁は磐長姫神さまに切ってもらえたらなぁ。」なんて思うことも・・・。
(本当に極、極、希にではありますが。)
そんな事を思うと、まぁ、人間関係に於いて悩み多き時代に、パワースポット化するのも分かるような気が致します。
にっちもさっちも行かなくなってお悩みの方は、どうぞお参りしてみて下さいませ。
(但し、愚痴や悪口は厳禁ですぞ。あと、必ずお礼参りも忘れずに!)
権禰宜H
【御遷座150周年記念事業】
高知八幡宮は、明治4年に高知城内より現鎮座地へと御遷座されてより、令和3年をもって150年目を迎えました。
この佳節に計画を致しました様々な事業計画は、崇敬の念お篤き多くの方々よりのご奉賛を頂きまして、現在も順調に進んでおります。
ここで、記念事業計画の1つであります「社殿装飾・祭具の一新」についてのご紹介を致します。
ご祭神への報恩感謝の意を表すと共に、更なる神威高揚を願って、装いを新たにして頂く。
という事でこの度、ご本殿の御簾を全て新しく壁代へと取り換える事となりました。
先日は、神社やお寺の調度品を取り扱う会社の方がお見えになって、色々と打合せや採寸をして頂きました。
来る9月には「御遷座150周年記念大祭」の斎行を予定しておりますので、その頃には新しく、また少し雰囲気も変わった御本殿をご披露できるのではないかと期待しております。
皆様もどうぞ楽しみにご期待下さいませ。
結局、お相手の方とその旦那様が2名の保険担当者と共に、
八幡宮へ来社して正式な形での謝罪を受けたのが4月4日。
正否が確定した3月1日から、ほぼひと月後でございました。
(事故の起きた2月15日からは、じつに48日間でありました)
こうして、顔を突き合わせての正式な謝罪を受け入れる。
という事は、この時点では既に大体の納得はしている。
という事でございます。
神妙な面持ちで謝罪するお相手に対して、こちらも必要以上に
問い詰めたり、責めたりする様な事はございません。
(本当はここで、 “ 目撃者 ” とされていた “ 居合わせた同僚 ” の方の証言の内容については、正直、問い質したい気持ちはありましたが・・・)
時間は掛かりましたが、これで1つの区切りと致しました。
これからは、この反省を自分自身への教訓として頂き、
いつまでも懺悔の気持ちに囚われる事無く、
前向きに生活を送って頂けたらと思います。
このようにして、凡そひと月半に亘った今回の体験は、
実は私自身の「神主としての経験」としても大きなプラスとなりました。
神職の資格を授かってより13年目を迎え、
この辺で、神様から「おまん。(お前)ちっくと(ちょっと)これ、神主として、
うもう(巧く)解決してみーや!」と、
ここで、神主としての性質を試されたと言いますか、
「気を引き締めなさい。」と御祭神である八幡神からの試練を戴いたのかなぁ。
とも感じるのでございます。
だからこそ、あれほどの事故に遭っていながらも大きな怪我は無く、
また他人を巻き込んでしまうようなことも無く。
神主としての信念をもって「天地神明に誓いますので真実を明らかに顕して下さい。」と心から祈願をしたからこそ
助け、導いて下さったのではないかと思うのであります。
そして、この経験は『神主の体験』としてここに綴ることで、もしかしたら今現在、
これをご覧になっている方で、同じように、突然の「禍津神の禍事」によって、
真実が覆い隠され、正直者が馬鹿を見る様な、不条理で理不尽な事件や事故に証明できるものが何もなく、篤み、憂い、嘆き、苦しんでいる方が居られるとすれば、
「大丈夫。お天道様は、しっかりと真実を見ておられますよ。」
「最後まで信念をもって真実を追求すれば、いずれは転機が訪れますよ。」
と、ほんの少しでも光明となれば・・・
力になれれば、なによりでございます。
そして結びに、
この様な突然の事故の事を「禍津日神(まがつひのかみ)の禍事(まがごと)」と表現しました。
この凶事や災害などの源を司る、わざわいの神には、それに相対するように、
穢れを祓い、禍を直す神として「直毘神(なおびのかみ)」が同じく伊弉諾神の「神生み」によって出現されております。
悪い事・良く無い事には必ず、それを直して下さる神様が居られるのでございます。
「世の中は常に微妙なバランスによって成り立っている。」と感じる事はございませんでしょうか。
陽と陰・光と影・昼と夜・天と地・生と死・善と悪。そして、誠と嘘。
バランスといった意味合いでは、そのどれもが不可欠な要素と言えます。
悪い事・良く無い事であっても、見方や捉え方を少し変えれば、
マイナスに感じられるような事も、転じてプラスに働く事だってあり得ます。
「禍津日の禍事」と表現した今回の事柄も、「八幡神」のお導きと「直毘神」のお力に依り、結果的には私自身の神主としての貴重な経験となりました。
願わくば、相手の方にとりましても、今回の経験がこれからの人生に於いて、
負の側面だけでなく、正の方へと前向きに働くよう、心から願っております。
完。
権禰宜H
1本の「大木」を想像してみて下さい。
大地にしっかりと根を張り、どっしりとした幹からは、枝が幾重にも広がり、
葉は活き活きと生い茂っております。
大きなその幹は、腕を回しても抱えきれそうにありません。
重なる枝の間からは、木漏れ日が優しく降り注いでいます。
天へと向かう枝葉の、その先の方に居るのが “ あなた自身 ” でございます。
そしてさらに、その枝葉からも新たな芽吹きが始まろうとしています。
大地に張った根。大きな幹は「過去」であり、累々のご先祖様であります。
これから芽吹かんとしている若葉は「未来」であり、子供や子孫であります。
そして、幾重にも広がった枝葉の先が「現在」であり、自分自身でございます。
過去と未来。 そして、今現在。
過去と未来との真ん中の今。
それが【中今】(なかいま)と申します。
遠い過去があって現在があり、この現在がまた、未来を築いて行くのでございます。
その真っただ中、この一瞬こそが「中今」であります。
言い換えれば、今この瞬間に、過去も未来も全てが同時に織り込まれて存在している。ということ。
枝葉の下には、必ずそれを支えている幹や根があり、その枝葉が無ければ、新たな芽吹きもありえない。ということでございます。
つまり、自分自身が今現在この世に生を受け、人生を歩んでいるのは、
遠い過去から今まで、ひとつも欠ける事のなかったご先祖様の存在があり、
同じように、絶やすことなく、このバトンを未来へと繋いで行かなければならない。
そのために、この一瞬一瞬を精一杯に生きる。ということ。
さて、「誓約書」という言葉はちょっと嫌だから、「謝罪文」をこっちで書いて送りますので、内容を見てみてダメだったら言って下さいね。
という更なる要求にはもう「え?・・・いや、あぁそうですか。
まあ、もうどうぞ、好きなようにやって下さいな。」と言う風に、
半分、「正直、どうでもいいや」と。
「諦め」ではないのですが、呆れるというか「見限る」といった方が近いのか。
まぁとにかく、相手が納得するようにやってもらうことに致しました。
暫くして封書が届き、中にはA4のコピー用紙に「謝罪文」として、
過失を全面的に認める。という事や、
多大な迷惑を掛けた事を謝罪する。
という事などが綴られておりました。
また、旦那さんからも “ 車の所有者として ” という形で、同じような謝罪文に、
過信して妻の言い分が「正しいに決まっている。」と決めつけ、
精神的被害を拡大させてしまった事に対しても謝罪いたします。
とありました。
・・・う~ん、そうですね。
はい、分かりました。
まぁ、規範的な・・・当たり障りの無い謝罪文にはなっています。
ただし・・・結局、最後まで、あくまでも信号は「見間違えてしまった」とあり、
「見落としていたのだが、つい、こちらが青信号だったと言ってしまった。」とか、
「お互いカメラも無く、ばれないだろうと思ってしまい、気の迷いで・・・」とかいったような、
【過則勿憚改】のように、
「おっ、正直だね。潔くて、あっぱれ!」
とまで思わせるような、心を震わせる様な文章は見られません。
ですが、まぁこれでいいですよ。
取り敢えずは。
これ以上追い詰めても逆効果でしょうし、
なにより、もういいかげん決着をつけなければ。
ここまでに、事故の日から数えて凡そ35日です。
警察に証拠の映像が在る。と発覚して、
過失を認めてからでも21日です。
この間に、春の大祭や彼岸祭も終わってしまいましたよ。
あ~長い。 本当に時間がかかり過ぎです。
すみませんが、いつまでも付き合っていられません。
今回はここまでで良いです。
今回は。
・・・ただ、
お天道様はいつまでも見ています。
「中今」を生きている間は、いつまでも。
時間が掛かってもよいので、後は、
どうぞ、ご自分の中の「本心」とじっくりと
向かい合って頂き、
いつかはお天道様に真っ直ぐに
堂々と顔向けが出来ますよう。
過去と未来の真ん中の今。
かけがえのない一瞬、この時を。
是非、これからは魂を磨きながら、
精一杯に「中今」を生きて頂きたい。
と、切に願うばかりでございます。
『神主の体験』その⑮ ~ 八幡神と直毘神 ~ (完結)へと続きます・・・
【明浄正直】(みょうじょうせいちょく)或いは、
【浄明正直】(じょうみょうせいちょく)とお読みします。
神道に於ける人の心のあるべき倫理観を表した言葉でございます。
祝詞でも「明(あけ)き、浄(きよ)き、正(ただ)しき、直(なお)き真(まこと)の心・・・」とお申し上げする事もございます。
清浄で明るく、正しい素直な誠の心。という意味ですね。
また、神職の階位としても用いられ下から、
直階(ちょっかい)
権正階(ごんせいかい)
正階(せいかい)
明階(めいかい)
浄階(じょうかい)
と上がって行きます。
さて、日本語がまだ不慣れで、自分自身の言葉での謝罪が難しい・・・
と言うお相手に対して、ではこちらで「誓約書」という形で文章を用意しますので、
これをじっくりと読んで意味を理解された上で、署名・捺印をして提出して下さい。
それを以って、反省・謝罪の意思を確認させて頂きます。
・・・という訳で、以下の「誓約書」を作成し、相手側の保険担当者へと託したのであります。
宗教法人 高知八幡宮
権禰宜 ○○ ○○ 殿
誓約書
私は、令和4年2月15日の午後12時50分頃、○○市○○町の「○○食堂」がある交差点に於いて発生した事故につきまして、全面的に過失を認め且つ被害者やその他関係者に対し、虚偽の証言を行い困惑させた事を反省し、謝罪する事を誓約いたします。
令和4年 月 日 作成
住所
氏名
印
相手の方が認め、反省すべき事はここに集約されています。
逆に言えば、この点を認めない限りは今回のこの事故についての問題は、解決には至らない。という事になります。
平身低頭(へいしんていとう)
「過(あやま)ちては則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」の意識が在れば、
文字通り、平身低頭に。
理解し、認め、反省して、署名・捺印をして速やかに提出して頂き、滞る事無く解決にまで進める事が “ 誠意 ” というものでございますが・・・
しかし残念ながら、ここからがまた更に時間を要するのでありました。
相手側にこの「誓約書」が届いたであろう頃の夕方、突然、私のスマホに見知らぬ番号から着信が・・・
出ると、またもや相手の旦那さん。
「突然のお電話、失礼します。」という言葉からはじまり、ひとしきり謝罪の文言を述べられた後、
「全て言い訳にはなってしまうのですが。」と前置きをされてから、
「どうしても、誓約書の文章の中の “ 虚偽の証言を行い ” という部分が受け入れ難い。」
という事と、
「まずは直接お会いして、謝罪をさせてほしい。」
という内容のお話をされておりました。
(う〜ん・・・平身低頭どころか、要求をされてしまいました💦)
(ちょっと待ってくださいね。物事には順序というものがございますので・・・)
(ちゃんと過ちを認めてからの、謝罪ですよ?)
「いやいや、ちょっと落ち着きなさいよ。」と、
「あなた、先ほどから要求しかしていませんよ。」
「じゃあ、分かりました。文章の表現を少し見直してみますから。」
では、これならよかろうと「虚偽の証言」という部分を「誤った内容の証言」へと変更し、
今度はこちらが返信用の封筒まで付けて、返信期日まで設けて、改めて郵送したのであります。
それから約4日後、返信期日の当日になってようやく、保険担当者から電話が入り、
「会社への手紙はいったん全て本社へと送られる為、手元に届いたのが今日だ。」
「これから契約者に会って、改定された誓約書を渡す。」と言うのです。
(この保険会社はとにかくフットワークが鈍い。そしてレスポンスが遅い。)
そして、待つこと更に2日後・・・
驚く事に、今度は「こちらが謝罪文を作成するので、その内容を確認してほしい。」
と言うのです。
( “ 誓約書 ” は、どーしても嫌だったようです。)
(この期に及んでも体裁を気にされているご様子。)
どこまでいっても【明浄正直】の精神とはズレてしまっている・・・。
そう。 相反しているのではなく、 “ ズレてしまっている ” のです。
一見、謝罪しているように感じますが、反省すべき部分が違っている。
先ずは認めて、変わらなければならない。
それが反省です。
体裁や体面を気にしている場合では無いのです。
しかしまぁ、とは言え、わかりますよ・・・。
自分の犯した過ちを認め、変わるには相当の胆力が必要です。
すぐには受け入れ難い。というのも理解できます。
ただ、そういう “ 山 ” ばかりではない “ 谷 ” の部分も含めて「人生」なのです。
そういった闇の部分、影の部分も受け入れなければ、この現世(うつしよ)を生きる。という事にはならないのであります。
『神主の体験』その⑭ ~ 中今を生きる ~ へと続きます・・・
【過則勿憚改】
過(あやま)ちては則(すなわ)ち改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ
論語での孔子の言葉です。
「過ちを犯したと認識したら、他人の目や己の自尊心などを全て消し去り、躊躇する事無く、すぐさま改めるべきである。』 という戒めの語であります。
確証となる「事故の瞬間の映像がある。」という事実は、相手の方にとっても相当の衝撃だったのでしょう。
今までとは違って、反応はすぐに返って来ました。
「どうせ証明できる物なんて無いのだから、このまましらばっくれていれば有耶無耶に出来るでしょう。」なんて考えていたのだとすると、まさに「寝耳に水」だった事でしょう。
・・・結果は当然、「すみませんでした。こちらが赤信号だったと言われました。」です。
警察署で直接そう言われれば、認めざるを得ませんよね。
ただ、今回の件の「真因」いわゆる核は、そこに在るんじゃあないんです。
では、本当の過ちは何処に在るのか。
・・・言わずもがな、「嘘をついて誤魔化そうとした」事ですよね。
残念ですが、これまでの証言の数々からもそう思わざるを得ません。
先ず、事故直後には「すみません」を連発していたのが、ドラレコや監視カメラが無いと知った後から「自分の方が青信号だった」と証言を変えた事。
そして、「すみません」と言っていたのは「そちらが怒って取り乱している様子だったから」なのだ。としては
また、こちらの「あなたの信号は赤でしたよね?」の問い掛けに「はい」と言ったのは、自分が外国人で何を言われたのかが解らなかったから聞き直しの「はい?」だったのだ。とうそぶき。
更には、走行ルートの実証実験の結果「10km/hくらいのスピードで進めば直前で青信号に変わる。」といった、明らかに無理のある証言。
尚且つ、たまたま居合わせた同僚を目撃者に仕立て上げ、「音のした瞬間、振り向いた時、こちらの信号は青色でした。」という口裏合わせとも取れる様な証言。
まだあります、「こちらは仕事で毎日のように通っている道なのだから、信号のタイミングとかも全部よく分かっているんです。」と言う “ ちんぷんかんぷん ” な証言。
・・・いや、しかしよくもこう、雪だるま式に膨れ上がったものです。
とにかく、これらの証言や「自分が正しい」と言う割には「真実を究明しよう」と行動を起こす様子が全く見られなかった事からも、
どんなに上辺だけの謝罪の言葉を並び建てられようとも、果たして、本心から反省しているのか?
申し訳ないが、疑念は払拭しきれません。
相手の方が全面的に非を認めた。と報告を受けてからすぐに、相手側の保険担当者の方から電話が入りました。
「この度は、大変ご迷惑をお掛けしました。」
「こちらの契約者に思い違いがあったようで・・・」
「お体の方、お怪我などはいかがでしょうか?」
云々。
・・・はい?
「こちらの契約者に “ 思い違い ” があったようで」?
電話口だったので、敢えて其処には突っ込みませんでしたが、
これまでの数々の証言を全て、「思い違いだった」で済ませようと言うのでしょうか。
相手側の保険担当者の方からすれば、何気ない一言だったのでしょうが、
2週間にも亘って始めから自分の正義を正直に主張し続け、それを証明する為にあらゆる努力を惜しまなかった “ 被害者 ” からしてみれば、この一言は残念ながら致命的であり、決定的な言葉でございました。
この加害者と保険会社からはおそらく、心からの反省・謝罪は期待できない。
では、上辺だけの言葉ではなく、本心からの謝罪であるという事をどうやって見極めるのか。
「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という戒めの言葉が通用しないタイプの相手にはどう対処すれば良いのか。
・・・これは他人がどうこう出来るものではありません。
自分自身が気付いて、認め、反省し、変わって行かなければなりません。
しかし現状は、当事者本人は相変わらず、外国人で日本語が不慣れなので。という理由からか終始、引っ込んだまま。
代わりに旦那さんが表に立っての対応が続いています。
(いや、あなたじゃないんだよなー)
そんな状態の相手から、これが反省と謝罪の言葉です。と言われても、
(いや、それ本当にあなた自身の心からの言葉なんですか?)と、
(代わりに旦那さんが作ったセリフをただなぞっているだけなんじゃないのですか?)と、
そう思わざるを得ないのでございます。
では、せめて文章にしたら言葉の意味もゆっくりと理解し易いのかな。
・・・という事で、苦肉の策として相手側には「誓約書」を提出して頂く事にしたのでございます。
『神主の体験』その⑬ ~ 明浄正直の心 ~ へと続きます・・・
神道(しんとう)に於いて、人は、神様の “ 御分霊(わけみたま) ” を頂いて、この現世(うつしよ)に生まれ落ちます。
そして、一生を終えますと、再び神様の “ 元神霊(もとつみたま) ” へと帰一(きいつ)するのであります。
つまり、人は産土大神(うぶすなのおおかみ)から御神霊の一部 = 魂を分け与えられて、一生をかけてそれをお預かりする。 と言えます。
神様からお預かりした魂は、「綺麗なまま、お返ししなければならない。」のです。
だから普段の生活の中で、罪や穢れ・咎といったものにまみれて魂を汚してはならない。
始めは玉の様に丸く輝いていた魂を、一生を終える頃には凸凹に歪み、くすんでズタボロになった状態で神様へお返しするのは良くない。 ましてや、これから神様にお仕えをして行く立場の神職となれば尚更だ。
・・・これは、私が神職になりたての頃、初任神職研修のなかで頂いたお話であります。
要は、人間としてこの世に生まれて来たからには、一生をかけて成し得るべき使命を見出し、それに向かって懸命に素直に正しい道を歩みながら「魂を磨け!」
という事でございます。
さて、意を決して診断書を提出しようと訪れた警察署で「事故の瞬間の映像が実はある。」という、神がかり的な奇跡にも近い展開となり、しかもこちらの証言の通りに信号は青信号だったという確証を得たのでありますが、
【糺咎顕真】のご祈願どおりに、迅速な神業を以って神慮が顕された事となり、これはもはや、決着と言ってもよろしいでしょう。
更に言ってしまえば、こちらが相手側への生殺与奪の権を握ったと言っても過言ではございません。
事故の規模からも、場合によっては命の危険や大怪我を負っていた可能性もあり、2週間にも亘る精神的苦痛を強いられた事への償いとして、
このまま診断書を提出して人身事故とし、警察の捜査を受け、違反が発覚した相手側の方には刑事罰が科せられ、社会的制裁を受けてもらい、更に言えば慰謝料を請求する・・・という道を選ぶのか。
それとも、「事故の瞬間が記録された映像を、警察が入手・保管されているようですよ。」という事実を相手側に告げるのみとし、
「さぁ、どうしますか?」の最終通告に於いて、全面的に自分の非や過ちを認めるのであれば、今回は情けをかけて、もう今後同じような過ちを犯すことなく、まっとうな道を歩むよう更生を促す・・・という道を選ぶのか。
前者のように「ほれ見た事か!どうだっ、倍返しだー!!」とやってもそれは、素直に正しい道を歩みながら魂を磨く。という事にはならないのであります。
ましてや、相手側にとっては反省や後悔もするでしょうが、おそらくは同じくらいの恨みや憎しみの感情も抱く事になってしまうことでしょう。
そうすれば、魂はより穢れる事になります。
そこに救いや導きの要素はございません。
それに【糺咎顕真】の祝詞では「嘘をついて陥れようとする相手を懲らしめて、やっつけて下さい。」とお願いしているのではありません。
「弱い心の淵に囚われている者を其処から引き出し、まっとうな人の歩むべき正しい道へとお導き頂いて、道徳的な行いをしっかりと選択できるように助けてあげて下さい。」と祈願をしたのでございます。
であれば、そうなるような道の方を選択すべきでしょう。
持参していた「診断書」はいったん引き下げる事とし、警察署を後にしてから、事の成り行きを保険の担当者を通して相手側にお伝えしたのでございます。
・・・が、ここからがまた長かった。 すみません、もう少しだけ続きます💧
『神主の体験』その⑫ ~ 過則勿憚改 ~ へと続きます・・・
あと、そう言えば “ これがダメ押し ” みたいな感じで「こちらは仕事で毎日のように通い慣れた道ですので、信号のタイミングはよく分かっているんですよ。」みたいな事も仰っておられましたか。
・・・これはもう、はっきりと申しまして逆効果と言いますか、私に言わせれば完全に墓穴を掘ってしまっています。
申し訳ないが、人間の心理と言うものが何も分かっておられないようです。
人は “ 慣れ ” が1番怖いのです。
「自分は慣れているから大丈夫。」という思い込みが心に隙を生み、ミスを生じさせます。
何事も “ 常にゆとりと緊張感を持って ” です。
「仕事で毎日のように通い慣れている自分の方が、よく分かっているのだから、間違えたりする事は無いのだ。」という思い込みこそが、この方のミスの原因です。
そして、こういう類の主張をする。という事こそが、今回の件の「真因(しんいん)」と言えます。
詰まる所、最初の嘘が雪だるま式に膨れ上がって、引くに引けなくなってしまっている。という事なのでしょう。
これ以上、当事者同士でやり取りをしていても一向に着地点が見えてこない様なので、意を決して警察署の交通課へと「診断書」を持参致しました・・・
「あの~すみません。2月15日に○○の交差点で事故に遭った者ですが・・・」
毎年、秋祭りにはお神輿が町内を練り歩くので、道路使用許可証というものを申請します。
ですので、警察署の交通課には多少慣れております。
この時は、少し若いの警察官の方が対応して下さいました。
「はい。事故に遭われたご本人の方でしょうか。」
「えぇ、そうです。 今日でちょうど2週間になるのですが・・その後、何か進展が無いかなぁと思いまして。」
「あぁ、そうですか。・・では、何かご身分を証明できる物はございますか。」
運転免許証を提示し、
「ちょっと、お預かりします。お調べしますのでお待ち下さい。」と資料などが整理された棚の方へ入って行かれました。
すると、ほどなくして別の方と2人で戻って来られました。もう1人の方は一回りほど年配で、上司といった感じです。
「ご本人さんですね。・・・それじゃあ、ちょっと奥の方へ入って来て頂けますか。」
通されたのは、待合室などに置かれている様なソファーがある一角。
「どうぞ、そちらへお掛け下さい。」
「・・・今日は診断書を提出しに?」
「えぇ、そうですね。・・お互いが青信号を主張していて平行線というか、ちょっともう話が前に進まなくなってしまいまして。」
「確証できるものは無いとは言われているのですが、出来る限りの事はやっておきたくてですね。」
「なるほど。 では、こちらの診断書を提出されますと、今後どのようになって行くのかはご存知ですか?」
「・・・そうですね。人身事故へと切り替われば、より詳しくお互いが実況見分とか、警察の方でちゃんとした信号のタイミングなどを計って行く事になるんでしょうか。まぁ、それでも解決に至らなければ最悪、弁護士をたてて裁判?という事になるんでしょうかね。」
「・・・そうですね。裁判という事になりますと、必ずどちらかに決着が着きます。そうなれば当然、非が認められた方には刑事罰が下る事になります。」
「そこはご理解頂けているんですね。」
少しの間があり、手に持っていた資料に目を落として、暫くしてから。
「ご本人さんという事なので言いますが・・・実は警察は、あの後で映像を入手しております・・・。」
「どの場所での、どの角度からの映像かはお教え出来ませんが、事故の映像は入手しております。瞬間の信号の色まで確認は出来ています。」
(はい、来たコレ! えっ、マジか。)・・・なぜか急に緊張してきました。
自身はあるものの、決定づけられる揺るぎない証拠が急にあった。となると、もし万が一にも「あなたの方が赤信号でしたよ。」と言われたらどうしよう💦と不安になってしまいます。
「え?あぁ、そうなんですか。」とちょっと間の抜けたような返事になってしまいました。
しかも結論を言ってくれずにもったいぶるので、しょうがなくこちらから「えっと、それで、どちら側が青信号だったんですかね?」と恐る恐る聞いてみます。
「・・・うん。まぁ、私が直接その映像を確認したわけじゃあないんですがね。」
「・・・あなたの方が有利な結果になるんじゃあないですかね。」
(何?その、断定はしきらない。みたいな言い方?)
「はぁ・・・」 え?どういう事?みたいな顔をしていると、
「あなたが主張されている通りの結果だった。と思って頂いて宜しいかと思いますよ。」
「・・・という事は、こっちの方が青ですか。」
「そういうことになりますね。」
(いや、ちょっと、緊張させんといてーよ。)
(・・・ほらぁ、やっぱりこっちが青じゃん。)
(よう映像が見つかったな・・・警察すご!)
・・・やはり、お天道様は見ておられたのです。
人を偽り・騙す事は出来るかもしれませんが、お天道様と自分自身には決して嘘はつけない、偽ることはできないのです。
因果応報。
過去の過ちは、必ず結果として還って来ます。
それにしても、「糺咎顕真」の祝詞をお申し上げしてから、わずか数日でのこの結果。
神様が誓いをお認めになられ、願いを聞き入れて下さったのでしょうか・・・それは分かりませんが、神主としては神様にお力を頂いた。
正しい道へとお導き下さった。と信じております。
『神主の体験』その⑪ ~ 魂を磨け! ~ へと続きます・・・