『神主の体験』その⑭ ~ 中今を生きる ~

 

1本の「大木」を想像してみて下さい。

 

大地にしっかりと根を張り、どっしりとした幹からは、枝が幾重にも広がり、

葉は活き活きと生い茂っております。

大きなその幹は、腕を回しても抱えきれそうにありません。

重なる枝の間からは、木漏れ日が優しく降り注いでいます。

天へと向かう枝葉の、その先の方に居るのが “ あなた自身 ” でございます。

そしてさらに、その枝葉からも新たな芽吹きが始まろうとしています。

 

大地に張った根。大きな幹は「過去」であり、累々のご先祖様であります。

これから芽吹かんとしている若葉は「未来」であり、子供や子孫であります。

そして、幾重にも広がった枝葉の先が「現在」であり、自分自身でございます。

 

過去と未来。 そして、今現在。

過去と未来との真ん中の今。

それが【中今】(なかいま)と申します。

 

遠い過去があって現在があり、この現在がまた、未来を築いて行くのでございます。

その真っただ中、この一瞬こそが「中今」であります。

 

言い換えれば、今この瞬間に、過去も未来も全てが同時に織り込まれて存在している。ということ。

枝葉の下には、必ずそれを支えている幹や根があり、その枝葉が無ければ、新たな芽吹きもありえない。ということでございます。

 

つまり、自分自身が今現在この世に生を受け、人生を歩んでいるのは、

遠い過去から今まで、ひとつも欠ける事のなかったご先祖様の存在があり、

同じように、絶やすことなく、このバトンを未来へと繋いで行かなければならない。

そのために、この一瞬一瞬を精一杯に生きる。ということ。

 

さて、「誓約書」という言葉はちょっと嫌だから、「謝罪文」をこっちで書いて送りますので、内容を見てみてダメだったら言って下さいね。

という更なる要求にはもう「え?・・・いや、あぁそうですか。

まあ、もうどうぞ、好きなようにやって下さいな。」と言う風に、

半分、「正直、どうでもいいや」と。

「諦め」ではないのですが、呆れるというか「見限る」といった方が近いのか。

まぁとにかく、相手が納得するようにやってもらうことに致しました。

 

暫くして封書が届き、中にはA4のコピー用紙に「謝罪文」として、

過失を全面的に認める。という事や、

多大な迷惑を掛けた事を謝罪する。

という事などが綴られておりました。

また、旦那さんからも “ 車の所有者として ” という形で、同じような謝罪文に、

過信して妻の言い分が「正しいに決まっている。」と決めつけ、

精神的被害を拡大させてしまった事に対しても謝罪いたします。

とありました。

 

・・・う~ん、そうですね。

はい、分かりました。

まぁ、規範的な・・・当たり障りの無い謝罪文にはなっています。

 

ただし・・・結局、最後まで、あくまでも信号は「見間違えてしまった」とあり、

「見落としていたのだが、つい、こちらが青信号だったと言ってしまった。」とか、

「お互いカメラも無く、ばれないだろうと思ってしまい、気の迷いで・・・」とかいったような、

【過則勿憚改】のように、

「おっ、正直だね。潔くて、あっぱれ!」

とまで思わせるような、心を震わせる様な文章は見られません。

ですが、まぁこれでいいですよ。

取り敢えずは。

これ以上追い詰めても逆効果でしょうし、

なにより、もういいかげん決着をつけなければ。

ここまでに、事故の日から数えて凡そ35日です。

警察に証拠の映像が在る。と発覚して、

過失を認めてからでも21日です。

この間に、春の大祭や彼岸祭も終わってしまいましたよ。

あ~長い。 本当に時間がかかり過ぎです。

すみませんが、いつまでも付き合っていられません。

 

今回はここまでで良いです。

今回は。

・・・ただ、

お天道様はいつまでも見ています。

「中今」を生きている間は、いつまでも。

時間が掛かってもよいので、後は、

どうぞ、ご自分の中の「本心」とじっくりと

向かい合って頂き、

いつかはお天道様に真っ直ぐに

堂々と顔向けが出来ますよう。

 

過去と未来の真ん中の今。

かけがえのない一瞬、この時を。

是非、これからは魂を磨きながら、

精一杯に「中今」を生きて頂きたい。

と、切に願うばかりでございます。

 

『神主の体験』その⑮ ~ 八幡神と直毘神 ~ (完結)へと続きます・・・

 

 

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